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clubbiのブログ   より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
理趣釈対照理趣経意訳 大楽金剛不空真実三摩耶経の理趣釈対照意訳 完成しました させた


ついに理趣釈対照理趣経意訳を完遂しました

しかし何か後味が悪いのは何故でしょう

 

簡単に言えばこのお経はこの欲望荒れ狂う世界で大悲思いやりが通用するのかという問いです。(別の考え方もあります。慈悲を持てない私達が如何にして仏になるかという別立てです。)

 

今後コロナウイルスで多くの人が困るでしょう。病気+閉業失業による災禍です

NHKまたまた嘘を言ってたぞ。「戦争で死んだ人よりウイルスで死んだ人の方が多い」。うーん、ペストはそうだったかもしれない?

でも今回は嘘だ。

失業などで呻吟する人とそうでない人。また医療後進国、米国も移民や貧困層に対処できてるか、欧米も難民にどうか、日本は・・・、医療を受けられる人とそうでない人。取り敢えず格差とか差別と言うとして

 

この差別と格差に対して大悲はあるか。既に大企業や超大企業が労働分野を狭めて、大衆は隙間産業に逃げ込むしかなかったから、外出禁止となると不要な営み=隙間産業やサービス業(お寺もか)が不要となる。では何が必須の営みか。①食べる②医療③勉学④運動⑤に心の健康を挙げたい

 

心の健康=大悲ではないか。

 

BSは頑張ってる。アーカイブは特に良い。先日もこんなことを論者が言っ一人が言っていたことは、たとえばそのくにで医療を受けられる人そうでない人がでてくる。また生き残る人そうでない人。皮肉なことに、今まで先進国は途上国に投資したりしてうまく儲けてきたが、資本は途上国から先に退いて言っている。また当然後進国は医療の態勢も皆保険もない。そして欧米は分かりやすく、またこの国でもうらやむ人とうらやましがられる人が出てくる。国際的にもそうだ。そうすると一つには暴動が起こる危険性が高まる。そうすると監視国家や国家主義つまり富裕層だけが生き残る道の模索や自分の国だけ守ろうとする傾向が高まる

 

ここで問題なのは貧困層はもろに苦しむのであり

富裕層も暴動などに立ち向かう心が生じる。つまり最初は弱者に対しての労りであり、それがうまく行かないと防衛である。防衛は心をギスギスさせ心を荒廃させ対立を激化する。

 

仏教的に言えば大衆の涅槃安心が損なわれていくのである。ますます物質的な繁栄へと目が向いていく。心は疎かになり生きる目的も気力も失せていく。その果ては過激であり偏狭であり貪欲や愛欲の先鋭化だ。

 

まあ私も思っていたことだが、この危機にこそ心が問われるということだ。もう一つ。このピンチはチャンスという表現で心の目覚め=シェアする慈悲的生活の確認と再出発を位置づけるならば、ここで当然深く自分自身の人間性例えば慈悲が自分にあるか、その為の行動力はあるかと問うべきことはうすうす分かるのだが、今までの阪神震災後のボランティア活動の興隆と衰退や東日本大震災でのそれ、特にあの大惨禍である第二次世界大戦後の反省の徹底と世代交代による風化を見るとき、相当に深い反省と自己問答が無ければ、そのようなちっぽけな心の覚醒は大きな流れにもみ消されてしまうのだ。

 

さて、理趣経というもの。

 

人間性特に人の痛みとどこまで真摯に向き合えるのかである。自分の三毒の猛威とその反省と解消とそれを指弾するいたわりあいへの人間性。

 

①はしがきと②試みの解説と③現代的意味と④煩悩即菩提についてを載せておく

 

①はしがき

空海遍照金剛の弟子は毎日に理趣経を読誦する。
この理趣経は理趣釈で理解する。今回は空海様の著作を座右に置きつつ大学で小林先生に習った梵文解釈の助けも得て和訳は荷が重く意訳に努めた。
理趣釈の門外貸出を断った史実のように理趣経は師資相伝であるから無闇に表すことは躊躇するが所々に散乱する時代に一石を投じたく此処に現時点での悩み相談等纔発心利他行と浅学の成れの果てを書き上げる。
もとより真実諦ではなく生滅言辞である。拙僧が京都大学の卒論の目標としたのが理趣経であった。当時は仏教の慈悲の所在が不明でスラム街でのセツルメント活動などで利他行の在り処を探っていた。その一方で私はお釈迦さまや空海さまの動機が知りたかった。何を目指されたのか。何がそうさせたのか。
理趣経百字偈には泥中の根が蓮華を咲かせる譬えがある。泥が咲かせるのか、それとも泥がなくても咲くのか。
私のセツルメント経験では泥は現に在るのでありそれを意識化しなければ咲かない。ならば釈迦師匠も空海師匠も泥中に居たのだ。泥と自分。最古経の釈迦の「見えない矢」の発見は自分自身の泥だ。自分が泥か、それとも泥と自分は分離できるのか。無意識や抑圧を説く心理学では泥が見えない。下部構造を説く哲学では泥が主役だ。適者生存や弱肉強食論では泥が明日をつくる。
問題を大悲に転ずれば、助ける側と助けられる側がある。理趣経の菩薩の境地を比喩する妙適が釈では「金剛薩埵亦是蘇囉多。以無縁大悲。遍縁無盡衆生界。願得安樂利益。心曾無休息自他平等無二故」。特に無休息自他平等無二とあるのは、まさに能助と所助の共鳴を指す。しかし能助というが自分が泥中に居なかった人間がかつて本気で能助できたというのか。自ら溺れたもののみが他者の存在を確認できるのではないのか。
且つ、此れは菩薩の位であって如来のではない。如来を知らない菩薩が果たして泥中と泥外の区別ができるのか。だから菩薩は無休息なのだ。なぜなら泥中に在ることが生きるということであるかもしれないからである。ならば泥を知ることから始めなければならない。

さて、空海さまの言われるように、昔は私達凡夫と同じく迷ったお釈迦さまがその解決をしたのだ。その後塵を拝するのも一つのショートカットではないか。諸行無常であり人生は短い。その上あれだけの戦争の惨禍で「戦争だけはしてはならない。人間が野獣同然だ」と言い切った人々も一人去り二人去りして代が変わると「戦争って本当にあったの。嘘でしょ」である。温故知新という。歴史を繙くのは厄介な作業。梵文や漢文理解も要るし、なによりその時代の人になりきらなければならない。時代も勉強せねばならない。他人を知るためには種々多様な経験を積まねばならない。まるで理趣経の一切智智の習得だ。二千年も前の経典など読解しなくてもウィキペディアを愚愚ればいい。そこに乗せれば古典を読まなくてもショートカットできるようにしてあげようとつくった意訳。しかしショートカットはない。

 

②試みの解説

空海遍照金剛の主著は秘蔵宝鑰(十住心論)であり、有情の心を十種類で説明していて、その根拠は大日経であるがそれだけではない。なぜなら空海さまは既に三教指帰で二つのことを人生の疑問にする。
一つはこの世に沢山の解決できない苦しみがあること。天災や病や老や死や存在の多様性である。もう一つは蛭牙公子を告発する。人為人災であり人間=自分自身の評価である。即ち「性が悪く生き物を狩って苦しめ昼夜酒池肉林に浸り遊興にことかいて博打をする」人々を他人の血を吸って生きる蛭として描く。「下は万民を虐げて人の痛みを知るということがない」と。それは今日の格差を知りながら保身しカジノに走る人々へとあたかも輪廻している。この告発は大日経に出会ってその生き方を異生羝羊心(ただ性欲と食欲を貪る精神)で抉りだす以前のことである。
空海さまの卓見はその悪行の由縁の洞察である。この吸血鬼のような血も涙もないような生き物が何故生み出されるかについて「生死の海」で克明に記す。すなわち「波が荒れ狂い雷鳴が轟いて、種々のものが入り乱れてありとあらゆる奇怪な生き物たちが生み出される」と。あたかも地球誕生してより地球スープから生き物が発生するかのような観察がなされる。その描写は印度的ではなく文選などの中国的言辞を駆使しているが空海さまの独自の感性が導き出した現実凝視である。それは理趣経の般若の解明に開花している。そして血吸い蛭公子の悪性の原因は陶然=環境や生い立ちだとするところが既に菩薩道の発想だ。観音の「あらゆる存在とその認識は清らかで如来に通底する(一切法清浄)」と華厳の「空とは無自性故に去卑取尊(一切智智)」の発想である。悪人は居ない。何も知らずに生まれて何も知らずに善悪を行って苦しむ人々が如何にして救われるのか。秘蔵宝鑰の冒頭だ。それが生涯を懸けて取り組まなければならなかった問題なのだ。それは仏教入門4に示した。
幼少から二十歳ごろまでの空海さまがそのようであるから、大日経や理趣経に出会ったときの喜悦はいかばかりかと思うと感涙に伏す。「いつまでも(四国辺土に)萍の如く漂うことをやめて・・・孑として京へと向かおう。かつて一族再起の登竜門と信じた官位取得すなわち冠や衣の色で上下を付けて他人を食らって生きる出世など捨てて自他平等涅槃の道に行くぞ」という出家の熱意の果実である。その熱意こそ大悲と一切如来加持の原点が在る。
このようであるならば、人を虐げて生きる生き方を改めて{妙適=「以無縁大悲。遍縁無盡衆生界。願得安樂利益。心曾無休息自他平等無二」=官位の分け隔てなくあらゆる有情に接して安楽利益を求めて対等平等境地を得たいという生き方}を大日経で裏打ちすことはまさに水を得た魚であったに違いない。
こう書くとまるで空海さまが仏教を利用したような記述であると思われるだろうがお釈迦さまこそが虐げ合いの戦乱で戦士として人を殺せなくて自他一切有情の殺せないし殺さなくては生きていけない苦しみという空海さまと同じ=平等(金剛、義、法、業平等)の苦しみを負っていたのだから当然の輪廻(受苦、法平等)であり菩薩行(共苦、義平等)であり菩提(解脱、金剛平等)である。「諸仏如来も昔は因地に在って本法身に迷うことは我与異なること無し、然るに発大精進勤修正行して已に成正覚」、お釈迦さまもかつては私と同じだった。私も進退窮まって辺土するまでは官位を求める蛭と同類のものだった。と推察するのは横着であろうか。しかしこの辺に「仏法遥かにあらず心中にして即ち近し」の五大に皆響き有りがあるように思われて仕方ない。ちなみに空海さまは人間に上下の印を押す官位を蹴ったが同様にお釈迦さまは最古の経Sn4-⑮で「私は上中下を言わない」と差別を否定している。

 

③現代的意味
一切智智、金剛、如来衆生平等、一切法清浄、無分別成所作智、大悲、妙適、不趣涅槃、これらの術語によって理趣経の主旨は明確になったと思う。
一切智智とは私の理解では大日経に説くように一人一人の衆生の四種涅槃(自性涅槃→有余涅槃→無余涅槃→無住涅槃)を泥中→成道→般涅槃→この世の説法と救済に随伴して成就してそ智慧を獲得すること。つまりあらゆる有情のいちいちの苦悩を知り解決の道を歩み真の涅槃を獲得しつつこの世で大悲の救済活動を行うことである。その心境は妙適である。
しかしその為には空海様の「いかんが己身の膏肓を療せずしてたやすく他人の腫脚を発露すや。」の如く自分の三毒を解除せねばならない。そして完成するのが金剛でありその徳は不動と如如である。
その手前にあるのが我と衆生と如来の平等である。この平等とは末尾の私見煩悩即菩提で解明のようにあらゆる衆生は釈迦眼で見れば修行すれば必ず菩提にいたるのである。理由は指導者か他ならぬ釈迦だからだ。または空海様がいう「釈迦も因位には迷うこと私と平等で」である。この釈迦眼で一切を見るとき「一切法清浄」である。あらゆる有情は法器にあらざるなしだ。
だから私達も三毒を解消して衆生救済しようよというのである。このとき困るのが金剛の如如と不動の性格だ。有情のいちいちの苦難である泥中に行き来してこれこれしかじかに如如としつつ三毒に振り回されない涅槃の不動を如何に保つかである。そこにそもそも迷いの根源である分別しないということが必用となる。無分別である。この分別はもともと企てるという意味であり、カーマつまり三毒に迷わされて奪ったり排除したり傲慢になったりする悪を妄想したり行動するという意味だ。つまり三毒に振り回されて自分や他人を傷つけないというのが無分別の原意だ。釈迦滅後長い年月が経つと長老たちは一切の分別を排除して極端な潔癖な無心へ向かったが、それは自分たちの生活を息苦しくし同時に有情救済には泥中に如如として苦悩を共にしなくては不可能なのにそれを困難にした。妙適の解釈は種々考えられるが自他不二平等無休であるから共感共鳴は含む。そこで絶対に汚れない智慧が必用となるのであり、それが般若波羅蜜である。理趣経後半では般若の特性が説かれて想ではなく般若であれば特殊潜航艇のように汚れることなく衆生救済が可能だとする。しかしこの問題は釈迦の弟子がずっと気にしていたことであり既に解決済みだったことは本文に示した。だから金剛に不動と如如がしっかりと組み込まれている。以上が大方の理解である。

ところが問題はなぜ大悲が必用なのかである。
人間にとって最も困難なのがこの大悲である。「菩薩の用心は他人を先とし自分を後とす」と言われ欲箭の如く纔な発心で救済せよと言われてもできるものではない。現今コロナウイルスも流行し災害時にはまた弱者から窮状に追い込まれるというのに、いったいどのような菩薩行が可能なのか。と言う前に真に人の痛みを知る大悲が登場するのか。そもそも大悲を持ち合わせていなければ理趣経全てが無意味だ。私は釈迦様も空海様も戦争や戦いで殲滅される一族に生まれて傷つけ合う泥中のなかで生き方としての大悲を発見し珠玉のように大事にしたのだと確認した(参考書)。それが一義利故である。釈迦様の一義はSn4-⑮に明確に描かれているし、空海様の一義は三教指帰に克明に記述されていて現存する。どう考えても御二人の動機は哲学的や宗教的な興味ではなく現実の自分の生きにくさであり、その自分の泥中を通して他人の泥中へと問題が広がっていくのである。これこそが平等の意味である。時間系列に於ける平等もあれば、横への広がりとしての平等もある。誰もが因位において泥中でありやがて金剛を得るという時系列の平等。これは四種涅槃である。そして自分の苦悩を解決するには人の痛みを知るという人間性を蜘蛛の糸として他人の痛みがいつしか自分と同等の痛みへと感じられ、ついには生きるもの全ての痛みの感受性へと横の連帯が敷衍していく。これが我と衆生の平等苦悩であり泥中の意味である。
この横の広がりとしての泥中を知るために大師は「菩薩の用心」を説いたに違いない。阿久悠さんが「自分や社会を知りたかったら人に関われ」と言う。また加藤登紀子さんは「悲しみや苦しみに根ざさない生き方は力が弱い」と言う。
なんとなく大悲の縦系列と横系列が見えてきた。縦系列は四種涅槃であり泥中から如何に蓮が咲いて衆生救済するに到るかであり後の十住心論となるだろう。横系列は自分の痛みが独りでは解決できないことに起因しているし、そもそも釈迦や空海様が自分や自分の家族のためだけの解決を求めたのであれば不殺生などの戒律こそ邪魔なものだったろう。どこに他人を殺害してのびのびしている人間がいるだろう。だれもが一緒に笑顔を湛えたいだろう。
こうして大悲の縦系列と横系列の網羅こそが一切智智の正体である。大悲の重々帝網であり即身成仏である。

さて、理趣経の冒頭は一切智智を得た大日如来の降臨から始まる。私は不十分ながらも諸真言や四無量心を毎日行っては、その心の検証として奉仕活動を繰り返して来て微かだが経典読解が深まったと思っている。密教は法身説法である。やってみて味をしめたから降臨したか。

 

④私見、煩悩即菩提について

煩悩即菩提は、
①一般には煩悩と悟りである菩提とは相対立するものとしてとらえられるが、両者ともその本体は真如なのであり、真理の立場からすれば、煩悩こそがそのまま菩提にほかならないということ。現実肯定的な大乗仏教の立場を強調した表現。(デジタル大辞泉)
②煩悩の本質はとらわれの心だが真実に照らしてみると一切が実体をもつものではないから恒常性をもつものではなく煩悩も菩提と離れたものではない。(小学館仏教大辞典)
③煩悩がそのまま覚りの縁となること。覚りの現実を妨げる煩悩もその本体は真実不変の真如であるからそれを離れた法はないのでそこに菩提の名を立てて両者の相即をいう。
③は①と②の折衷案か。(東京書籍仏教語大辞典)

①は、煩悩も菩提も同じである。なぜならa=鉄、b=鉄→a=bである。煩悩=真如、菩提=真如→煩悩=真如。
ここで思うのは❶一つの有がカーマ=欲望を起こして多くの個体になったというインド神話である。一つの有=真如とするならば多くの多様性は真如の現れであり真如である。
もう一つ思いは、❷アングリマーラのような悪人も釈迦にとっては弟子であるということ。釈迦にとっては、弟子は釈迦に従って修行すれば菩提に到る。数式にすると
(釈迦)×(煩悩=弟子)×修行→菩提である。
②は、煩悩も菩提も変化する→(ならば)煩悩+修行時間=菩提、(煩悩≠菩提)
③は、①の理屈だが、修行して煩悩は否定されて菩提になるべし。

もう一つの視点として、真実諦と生滅諦の見方がある。
要は、如来が見ると凡夫(煩悩の体現者)は仏の子(真如同様)であり(真実諦、真如諦)、凡夫が見ると煩悩は退治すべきもの(生滅諦、世俗諦)。
煩悩÷真実諦=菩提。煩悩÷生滅諦=煩悩。
煩悩÷釈迦眼=菩提。煩悩÷凡夫眼=悪人。
(煩悩即菩提と言いながら理趣経の主張は煩悩の退治であるから、煩悩+退治=菩提であり煩悩≠菩提である。煩悩=菩提-修行。)

飛躍するが先日ユゴーの「レミゼラブル」の映画を久々に見た。無宿者を泊めたのに銀の燭台を泥棒されたにもかかわらず司教は「差し上げた」と語る。私なら警察に渡しはしないが燭台は取り戻すだろう。ここで司祭の眼差しは「みんな神の子、悪人は居ない」であるかそれとも「なんとか立ち直っておくれ」か。司祭はジャンが神の子であろうがなかろうが、よしんば異教徒であっても助けただろう。それは優れた人間の人情だと思う。悪人+時間+人情=善人である。いやいや、ジャンが将来に善人にならなくても司祭はそうしただろう。{悪人+時間≠菩提,司祭=自己満足}だ。

さて、日本にも同様の話は多々あるが衛門三郎物語。
空海大師が仮に汚い乞食のふりをして衛門三郎に宿を頼むが三郎は追い返す。なのに三郎に不幸が訪れたとき彼は乞食につらく当たったのを後悔する。しかし後悔したのは彼が鬱になって仕事もできなくなり白眼視されて家族に追い出されて乞食に身をやつしてからである。そして三郎は自分の仕業で汚い乞食が辛い思いをしたことを自分の経験を通して痛く感じた。だから生れ変わって人助けしたいと念じて死んでいく。三郎の話は良くできている。
まず、⑴人間には人を助けなければならないと感じる人間性があるということ。但し⑵自分が痛い眼に遇わないと分からない。⑶この話には実は汚い乞食は空海さまであるという隠し球がある。乞食のふりをしていても実は仏である。つまり乞食も仏の子だと暗示している。だから四国の人々は遍路人が裕福なら裕福なりに、また貧相ならば貧相なりにあらゆる人々を弘法大師として扱った。片や哀れみを感じつつ常に手を合わせて尊敬の念で弘法大師さまと唱えた。それとて遍路が過酷な修行の場であったからであろうが。

さて、私も還暦を越えていろいろな経験を思い出す。種々の経歴の人々をお泊めして来た。大金が紛失することもあった。野宿してきた人を接待無料で泊めることは簡単なことではない。泥棒に遭っても、その人が困っていればまた泊めるのかどうか悩み込む。泊めただけでは済まない。人を元気にするには食と小遣いを与え仕事を与え褒める。性悪の人と一緒に住むのは自分との戦いだ。空海さま曰く、「道を弘めんと欲わば必ずその人に飯すべし。」と。
人を助けるとはいっしょに沈んでいくこと。そしてなんとかいっしょに浮かび上がること。

さて、煩悩即菩提とはなんだ。汚い乞食が決して訪れない門には、あるいはそういう人を見ないようにしている人には①も可能だろう。❷をやってみれば答えは自ずから見えてくる。
ならば、煩悩÷慈悲=菩提。煩悩÷傍観者=菩提。傍観者は煩悩の辛さを見ていないから[煩悩=空]÷傍観者=0。零は割れない。式として成り立たない。

結局、煩悩即菩提というのは釈迦のみが発することができる言葉だ。大悲のない人には②も③もどれでもいい。空海さま曰く「毒箭を抜かずして空しく来処を問い、道を聞いて動かずんば千里いずくんか見ん。」と。
毒箭を抜かずして空しく仏法を弄ぶを法執という。道を聞いて動かずんば我執強く煩悩という。

師曰く「人心には高下あり、仏道は不高下なり」。

 

 

  • 拙著参考書、仏教入門1&2、仏教入門3、仏教入門4。
  • 以下論文、善通寺紀要
  • 「武器を手にする経と死後を憂う経の比較により釈尊の原体験を特定する」
  • 「理趣経の性的表現と殺害容認をウパニシャッド等との類似性から定位しその仏教的限界と射程から即身成仏を確定する」
  • 「最古経のカーマを解明し無常無我空ではなく抜矢と共苦による平安説法を確定する」
  • 「最古層経の無記無分別を解明しブッダの科学的思考と平等の趣意を解く」

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・・・・・・・・・・
抜粋おわり



大事なことと思います。

お読みくださりありがとうございます。
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