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国際秘密力研究  より 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
ツイートまとめ テーマ:「未発の中」を中心に「中」の道理について考察する。陰謀追及者のメンタル維持や誘導情報への耐性についても考究する。
〇ある対象を認識出来なければ、その対象に対する態度を決定する事も出来ない。まずは対象を認識する事が先決である。「戦争」が「戦争」として認識されなければ、「戦争」に抗議する事も反対する事も阻止する事も出来ない。例えば「自然災害」としか認識しなければ永久に「戦争反対」は不可能である。

〇「自然災害や疫病に見せかけた軍事攻撃があり得る」という想定をしておく事で、ある事象が起きた時に「自然か、人工か」という思考が可能になる。「自然しかありえない」と思い込んでいたら、万が一人工でも認識の外にあり続ける事になる。認識されない対象は認識主体にとっては無いのと同じである。

〇「ある対象を認識出来なければ、その対象に対する態度を決定する事も出来ない」「まずは対象を認識する事が先決」「認識されない対象は認識主体にとっては無いのと同じ」と書いたが、逆に「認識しない事」についても述べておきたい。「認識する事」と「認識しない事」の両方を考察しておくべきである。

〇儒学の四書の一つである「中庸」で喜怒哀楽という感情が発する前の心の状態を「中」とする。外界を認識して感情が発する前の状態だから「未発の中」と言う。喜怒哀楽が発しても適正に統御されている事を「和」とする。これを「未発の中」に対して「已発の和」と言う。「中」と「和」で「中和」である。

〇「中庸」では喜怒哀楽という感情が生じる以前の状態を「中」と言うが、認識作用が起こる以前の状態も「中」に見立ててもよいだろう。何かを認識(感覚・知覚だけでなく思考や表象も含む)しなければ喜怒哀楽という感情が生じる事はないからである。何かを認識する事とそれに伴って生じる感情は不可分。

〇何が言いたいのか。「認識する事」の重要性だけを強調すると大量の情報に押し流される危険性があって片手落ちになるので「認識しない事」についても述べた次第。感情や対象認識が発する以前の「中」を押さえる事で何かを認識してもそれに執着したり振り回される事なく真偽を適正に判断する事が出来る。

〇儒学では喜怒哀楽が生じる以前を「未発の中」とするが、仏教では対象に執着しない「無執着」の実践を「中道」とする。このように東洋の認識論では「中」は「認識作用や感情の生じる前の心の状態」という程の意味で使われているようである。先人は未発の「認識しない事」と已発の「認識する事」を知る。

〇メモ的に書いているので、今一つまとまらないが、「認識する事」の根底に「認識しない事」を設定すると、その時々に流れる大量の情報に惑わされずに、本当に重要な情報を選び、かつその真偽を主体的に判断する余裕が生まれるのではないかという事である。先儒が「未発の中」を重視したのも理解できる。

〇原始仏典では「無所有・無執着が激流に押し流されない拠り所(洲)」とするが、儒典では「未発の中」が外物や感情に流されない立脚点とする。武蔵風に言うと「有る所」の多様な現象に対処する立脚点として「無き所」を設定していると言える。大量に流れる情報に対処する為の指針として参考としたい。

〇「認識されない対象は認識主体にとっては無いのと同じである」と書いたが、これは事実認識だけでなく事実とは異なる情報や思考の枠組みを流布する思考誘導の手口についても言える。裏権力走狗は次々に新しい言葉を作る又は広める。人は言葉で物事を認識するので言葉を作るだけで認識を操れるのである。

〇「認識する事」の重要性の強調だけでは危ういと思ったのは、この事があるからでもある。あくまで事実の認識が重要なのである。裏権力メディアは次々に新しい言葉を作り又は偶々誰かが発した言葉を拾って利用するなどして人々の思考を操っている。例えば「勝ち組 負け組」「ONE TEAM」「上級国民」等。

〇人は言葉で物事を認識する以上、言葉を作れば新たな認識対象を作り出した事になる。結果として人々の認識を操作する事にも繋がる。例え事実に対応しない只の言葉でも、言葉があるだけで言葉通りに言葉が示す対象が実在するかのような思念が生じる傾向が人間にはある。「言葉の魔術」はこれを利用する。

〇感覚以外の人間が認識する情報は言葉で構成される。言葉を作る(造語)だけで認識対象を創出し人の認識を操る事も出来る。だからこそ、「認識する事」の重要性だけでなく「認識しない事」についても考察し、言葉や情報に振り回されたり流されたりしない自らの立脚点を確保しておく必要がある訳である。

〇メモ。周敦頤の太極図説に「無欲なるが故に静なり」とあり。仁義中正という道徳の根底に「静」即ち「無欲」を置いた。老荘的な発想にも見える。儒では仁義礼智信という徳目を立てるが、周はその根底に「無欲」という心の状態を置いた。欲は認識対象に対して生じるので「無欲」は「未発の中」に通じる。

〇「仁義礼智信」という個々の徳目を立ててそれらに執着し過ぎるとかえって空回りする可能性がある事を考えると、それらをひっくるめて「無欲」という根底を置いた事は、「激流」とも表現される多種多様な現象に振り回されないように「中」(先述の「未発の中」や「中道=無執着」)を置く発想と通じる。

〇我が国の江戸時代の大塩中斎(平八郎。乱で有名だが、本来は儒学者)は「太虚」説を唱えた(「中斎」という号は「未発の中」から来ていると推測)。太虚とは「欲望から自由な状態」を指す。「無欲」と同義。中斎は太虚があれば仁義もあると言う。太虚に仁義礼智信が備わると。「図説」の発想と通じる。

〇認識される多様な現象に振り回されずにそれらに対処する立脚点の考究という点では、様々な東洋の先人の説はどれも参考になった。それらの説を参考にしつつも決して鵜呑みにはせず、自ら考察し、自分に合った指針や考え方を自ら工夫していくべきであろう。人を惑わす奇怪な事象が多い時代であればこそ。

〇「中」は「最適解の発見」であるが、「未発の中」のように「心にわだかまりがない状態」をも指す。按ずるにこれらは別々の事柄ではない。心に執着やら貪欲やら過剰な喜怒哀楽が無いからこそ、考えの偏りや認知上のバイアスが制せられ、思考が冷静かつ明晰になり、最適解を発見できるのではあるまいか。

〇仏教で善行為の根本を「離貪」「無貪」だとするのも、宋儒の周敦頤が「静」「無欲」を「仁義中正」「仁義礼智信」という道徳の根底に据える事に通じる。「貪(貪欲)」が無いからこそ事象をありのままに観察する「知恵」が発揮できるという関係である。やはり「中」には前述の両面がありそうである。

〇周敦頤は宋学(朱熹が大成したので朱子学と言われるが、朱熹と周敦頤の思想は全く同一ではない)と言われる新儒学の祖に位置付けられる思想家である。「儒学」とは言うものの、実際には仏教や老荘を加味した東洋思想の集大成的な内容になっているので、宋学を調べると儒・仏・道が総合的に把握出来る。

〇現代人は何かと大量の情報に晒されがちであり、陰謀追及者としては単に表面的な情報をその都度分析するだけではなく、それら情報に処する座標軸を自分なりに考究する必要があると考えているので、このような原理的考察をも重視している。思いついた時には忘れない内にメモ的に書いておく事にしている。

〇外物を認識して喜怒哀楽が発する前の平静な心の状態が「未発の中」で、外物を認識して発した喜怒哀楽が節度を保っている状態が「已発の和」。膨大な情報に晒されて常に心騒がしく、情報に接しては感情を煽られるという状況はまさに「中和」を失っている状態。「未発の中」の存養の工夫が必要であろう。

〇江戸時代の教養人にとっては宋学は基礎的教養だったので、平静な心を養う為の「未発の中」の存養の工夫は主要な探求課題の一つだった。現代は情報量は異常なまでに多いが、このような地に足の着いた実践上の工夫はあまり顧みられなくなった。情報だけが膨大となり、情報の海に溺れがちになっている。

〇明治以後西洋文明の流入で古い東洋の思想学問は忘れ去れれがちとなった。だが、古い事は決して有効性が無い事を意味しない。むしろ、西洋文明には無い知恵が豊富に残されている。だからこそ今や誰も顧みなくなった東洋の古い学問を敢えて持ち出して自らの考察に活かす事にしている。衒学趣味には非ず。

〇情報を認識しない時の平静な状態が「未発の中」で、情報を認識しても感情が節度に適っているのが「已発の和」である。何事かを認識しても極力「未発の中」から離れないようにする事が「已発の和」の工夫であろう。「情報の洪水」の中を生きる現代人にとっても十分に活用が可能な古き知恵と言えよう。

〇「未発の中」と「已発の和」は仏教の認識論でも説明可能。「眼耳鼻舌身意」という認識主体が「色声香味触法」という認識対象を認識する以前の状態が「未発の中」。眼耳鼻舌身意が色声香味触法を認識して渇愛や執著、欲や怒りなどが生じるもそれが除き去られるか節度に適っている状態が「已発の和」。

〇外界の情報を認識する以前の平静な心の状態「未発の中」という静かな心を養い、外界の情報を認識しても過剰に感情を煽られない「已発の和」を工夫する。これは膨大な情報が流れるネット社会に処する心得にもなるし、陰謀追及者の「心法」上の工夫にもなる。先人の知恵は現代でも通用するものが多い。

〇諸葛亮は「静を以て身を修める」と記したが、「未発の中」の存養と殆ど同じ事を言っていると見てよいであろう。周敦頤によると「無欲なるが故に静なり」なので、静とは無欲つまり過剰な欲望に執着して心がかき乱されたりしない平静な心境である。例えば、自己顕示欲が強過ぎると大抵、論が偏ってくる。

〇現代で学問と言えば知識の習得や発見を主とするが、江戸時代の学問は前述の如き実践上の工夫を眼目とした。「学問」の概念が明治を境に変化したと言えよう。勿論、知識や情報を集積し、それらを新たな発見に結び付ける事も重要だが、それを使いこなす人間がお粗末であれば知識はかえって凶器となる。

〇裏権力は最先端の科学知識や科学技術を占有し、「秘教」「魔術」などという前近代以来の西洋の知的体系も保持している。が、「支配」「破壊」の欲望にまみれた裏権力の連中が用いる知識や技術は凶器にしかならない訳である。その知識や技術自体が邪な目的の為に作られた邪悪なものである場合も多い。





〇以前述べた「未発の中」について改めて考察する。「未発の中」とは「中庸」の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆な節に中(あた)る、これを和と謂う。」に拠る。外界の対象を認識して喜怒哀楽の感情が生じる以前の平静な心の状態を指す。昔の儒者はこの「未発の中」の存養を工夫した。

〇未発の中は外物を認識して欲望や喜怒哀楽が生じる前の心の状態なので、貪欲などの煩悩を消し去った状態を指す仏教の「涅槃」と似ているが、後者が目指すべきゴールとして設定されているのに対し、前者はスタート地点にある理想態と位置付けられ、そこへの「回帰」が目指されている。儒仏の違いの一つ。

〇何故「未発の中」などという古い概念を持ち出すのか。昔の道学者のように倫理道徳を論じたいからという訳ではない。膨大な情報が流れる今のネット社会に処する上で参考になる認識論だからである。古の儒仏では外物(認識対象。情報もその一つ)を認識すると心に動きが生じるという認識論的洞察がある。

〇「動き」とは欲や怒りをはじめとする感情や「ああしよう、こうしよう」という思慮の働き、妄想などである。儒仏ではこの点につき実に精密な考察をしている。「情報を認識すれば動揺が生じる。精神が疲労する。」という認識から出発し、それに対して如何に平静な心の状態を保つかを工夫する訳である。

〇次から次に息もつかせず情報が流れる現代社会は情報量はかつてない程膨大だが、情報に処する為の工夫や情報に関する認識論的な考察は疎かになっていると思わざるを得ない。この点につき先人の方がはるかに精密な考察をした。「情報を認識すれば心に動きが生じる」という当たり前の事実を押さえるべき。

〇情報を認識すれば心が動く。思考(妄想も含む)や感情が生じる。妄想や感情が増幅すれば精神が疲労する。認識した情報に影響を受けて考えを変えられたり、あらぬ価値観を植え付けられ自縄自縛となり苦しめられるという危険もある。現代人はかかる膨大な情報の海に無防備に放り込まれる。まさに無防備。

〇「無防備」に対して「防備」とは何ぞ。情報に如何に処するかの工夫がそれだと考える。今風に言うと「リテラシー」と言えようか。江戸時代までの学問は知識や情報を追う事より「如何に生きるか」などの実践を主眼とした。「未発の中」の存養の工夫もその一つ。外物に如何に処するかを巡る認識論である。

〇「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う」と「発して皆な節に中る、これを和と謂う」は一連の洞察である。「和」とは心が外物を認識して心が動き喜怒哀楽が生じても節度に適っている事を指す。膨大な情報に処するにはその都度感情に煽られないようにする事が重要である。つまり「和」の工夫である。

〇「和」とは「中」から極力離れないようにする事とも言える。感情が節度に適っていて過剰にならないようにする事。感情の節度をはかる尺度が「喜怒哀楽が未発の中」であろう。喜怒哀楽が生じる前の平静な心の状態「未発の中」という基準を設定した上で、外物を認識して生じた喜怒哀楽の程度を調節する。

〇「未発の中」という基準点を設定する事で、何かを認識する度に生じる心の動きを適正な範囲に調節するのである。「適正な範囲」は感情が未発の「中」の状態との距離で推し量る。何らかの基準がないと情報を認識する度に感情を激発させて精神が疲労していく、という事にもなりかねないのは確かである。

〇仏教の認識論も「心が対象を認識すると心が動揺する」という観察から出発する。「眼耳鼻舌身意」が「色声香味触法」に接触して認識作用が生じ、そこに欲や怒り、執着、妄執(渇愛)が生じて苦しみが生じる、という一連の認識論がある。これも「何かを認識したら心が動く」という洞察を基本にしている。

〇「如何に情報に処するか」の工夫の上で儒仏の認識論で参考になるのは「心が何かを認識すると動揺する」という基本的な洞察を出発点にしている事である。情報を追いかけるばかりで、それに対して如何に対処するかの工夫が疎かになりがちな現代人にとってはとても参考になる価値の高い先人の遺産である。

〇「大学」に「格物」という概念がある。「物に格る(いたる)」(物の道理を極める)とか「物をただす」(対象との関係性を正す)など色々な解釈があるが、人間が認識する一物一事で工夫を積み重ねていくという趣旨では共通する。情報も然りである。情報を認識する度に感情を煽られないように注意する。

〇「中」(平静な心の状態)と「和」(感情が節度に適った状態)を工夫する方法が「格物」と言えよう。「格物」は「物の道理を極める」にしても「心と対象の関係を正す」にしても、認識した一つ一つの物事に即して工夫するという趣旨は共通する。情報に対処して動揺しない為の工夫も積み重ねだと言える。

〇「何かを認識すると心が動く」という洞察から出発する東洋古来の認識論からすると、無防備に情報の海の中に放り込まれている現代人は危険極まりない状態にいると言える。大量の情報に一喜一憂し、感情を煽られる、思考を誘導される、あらぬ価値観を植え付けられて苦しむ、などして精神が疲労していく。

〇情報を認識して心が動く以前の「未発の中」という平静な心の状態を基準として設定し、出来るだけ静かな心を養う工夫をする事は、膨大な情報に晒されているからこそ有用な事だと思われる。情報を追い、真偽を見極め、発信する陰謀追及者にとっては尚更重要な「心法」(中庸章句にある言葉)と言えよう。

〇「心法」は中庸章句に「孔門伝授の心法」(孔子学派が伝える心法)とあり。古武道などでは「剣法」「拳法」などに対する「心の持ち方」の技法を指す言葉として用いられる。倶舎論などの仏教の存在論的分類法では「物質」を指す「色法」に対して「精神」「心」を意味するようだが、これは意味が違う。

〇古武道で体術や武器術などの身体的技術に対して心の持ち方の技術を「心法」と呼ぶようだが(宮本武蔵「五輪書」にある「心の持様は常と変わらぬように」などが心法に関する記述)、陰謀追及に於いては個々の情報を追い分析する事に対して情報に処する心構えなどの工夫が「心法」に相当すると思われる。

〇沢庵が柳生宗矩に与える為に書いたとされる「不動智神妙録」が代表的な心法書である。「不動智」とは「心が一か所に執着せずに自由に働く状態」を指す。一言で言うと「無執着」である。剣の勝負の際にもこの心構えが重要だと説いた。確かに、特定の事柄に執着し過ぎると事実が冷静に観察出来なくなる。

〇陰謀追及をしていると時々異様に粘着してくる工作員に遭遇する事がある。何故か彼らは偏執狂的にこちらに異様に執着している。接点もないのにいつの間にか異様な憎しみを募らせたりしている。彼らは例外なく見解が偏っている。事実を冷静に観察する事も出来ない。特定の人物に執着しているからである。

〇特定の人物や事柄にあまりにも執着すると間違いなく観察力や判断力が鈍る。沢庵の言う「不動智(無執着の心構え)」とまでは行かなくとも、特定の事物に執着し過ぎないようにする事が冷静な観察力と判断力を維持する為に大切である事は間違いないと言える。既述の「未発の中」には勿論「執着」もない。

〇宋明儒学では「未発の中」の存養の工夫とは外物を認識して生じる過剰な欲望「人欲」を去る事を主としたので「増やす」より「減らす」工夫と言える。ここが西洋近代の学との根本的違い。道家は儒家以上にこの傾向がある。老子は知識などを「増やす」事ではなく欲などを「減らす」事を修養の基本とした。

〇「中」を内なる側面で見ると「未発の中」という平静な心境を指すが、外なる側面で見ると「最適解の発見」である。内なる中があって外なる中が発揮される。冷静でなければ最適解の発見などおぼつかない。心の「中」を失えば必ず判断が偏る。両極端に執着する。つまり両建に絡めとられる危険が出てくる。

〇ここで注意が必要なのが「中」は「両極端の真ん中」「中道主義」ではないという事である。具体的な個々の状況ごとに最適解は異なる。つまり何が「中」かは状況や文脈に依存する。その時々の状況に応じずにどんな状況でも「真ん中」を取る事に固執すればそれは一つの極端であり、もはや「中」ではない。

〇仏教では「中(中道)」は「無執着」の実践と同義とされるようだが、両極端に執着したり、如何なる状況でも特定の判断(「真ん中を取る」など)に固執したりすると、到底個々の状況に於ける「最適解の発見」など出来ないので、「中」に「無執着」という意味を含めるのは確かに理に適っていると言える。

〇孟子は無差別的な博愛即ち「兼愛」を説く墨子と個人の利益を第一とする「為我主義」の楊朱の両方の学説を批判したが、墨子と楊朱の中間に道理があると見なした子莫をも臨機応変さを欠くとして批判した。この事は両極端への執着だけでなく両極端の真ん中に執着する事も「中」ではない事を示している。

〇孟子によれば子莫は「執中無権」つまり「中間をとるが、臨機応変さが無い」という事である。両極端への執着だけでなく両極端の中間に執着する事も「中」に非ず。これは両建を破る為にも参考になる考え方である。両建を破る為に必要な事は両建の中間を取る事ではなく、最適解たる急所を見破る事である。

〇程頤(伊川)は「中は事事物物の上にあり人の私意による勝手な計らいではない」という趣旨の事を述べた。つまり、何が中かは個々具体的な事物や状況に即して決まるのであり、具体的な状況を無視しては規定出来ないという事である。何が最適解かは事実に即して判断される。故に事実の観察が重要である。

〇以前「中道」とは「事実と道理=事と理=事理に適合する事」と自分なりに定義した事があるが、程頤が言う「中は事事物物の上にあり」はまさに然りである。道理は事実に即してあるので事と理を合わせて考えてよいと思う。最適解を見つけるには事実と道理が基準となる。事実と道理に即して最適解を探す。

〇龍樹はその名も「中論」という書にて「中道」は「縁起(物事は原因と条件に依存して生起するという道理)」と同義だとした。「事実に即する」とは物事の因果関係を見極める事でもある。「事実を観察し、物事の因果関係を見極める事」も「中」に含まれる。現象の因果関係の観察は科学の基本でもある。

〇老子には「不如守中(中を守るに如かず)」とあり。老荘も中を重んじる。「中」は儒・仏・道の鍵概念らしい。これまでの考察で得た「中」の内容を列挙すると「平静な心の状態」「最適解の発見」「執着しない事」「事実に即する事」「因果関係を見極める事」等、陰謀追及に応用可能な重要なものばかり。

〇「両建、両建言うだけで解決策を示さない」と揶揄される事があるが、さにあらず。東洋古来の「中」なる概念の考察もその一方法である。勿論参考程度であり絶対視はしない。両建はオリエント以西の二元論的思考伝統に由来する謀略手法なので、その破り方のヒントを日本及び東洋の伝統の中に探っている。

〇個人的な「中道」の定義。中道とは「道に中る(あたる)」。「道」とは道理。道理は事実・現象に即するもの。故に「道」に「事実」も含めて、中道=道理と事実への合致。道理を理、事実を事とすると、中道とは事と理=事理への合致。事実と道理即ち事理を基準として最適解を見つける(中る)事=中道。

〇内なる「中」(心が外物に触れて生じる激情や執着、妄想などが無い平静な心の状態)と外なる「中」(ある具体的な状況に於ける「最適解の発見」)は密接不可分。塵一つない磨かれた鏡には対象がありのまま映し出されるように心が平静であれば冷静な観察力や判断力が自ずと発揮されるという機制である。

〇「荘子」で「明鏡止水」などと言う。磨かれた鏡や静止した水面は対象をありのまま映し出す。心が平静であれば冷静かつ客観的な観察と判断が可能となる。「心が平静」という部分が「内なる中」に相当し、「冷静かつ客観的な観察と判断」という部分が「外なる中」に相当する。両者は不可分一体と言える。

〇「中」という概念を考察してきたが、この「中」なる概念にも執着すべきではない。あくまで参考とするまでである。古い東洋の思想学問を参照するのは、殆どの人が顧みないような古い思想学問は逆に言えば裏権力による思想的汚染、思想改竄、謂わば「手垢」が付いてないからである。無論絶対視もしない。

〇西洋の思想学問の全てが裏権力に汚染されている訳ではないと思うが、西洋は裏権力の本拠地で歴史的淵源だけに思想的汚染が東洋より進んでいる事は否めない。故に東洋の古い思想学問を参照する。だが、単純な東西対抗史観に陥るのも両建の罠である。戦前のワンワールド主義者らも東西対抗史観を掲げた。

〇例えば石原莞爾が典型である。東洋の代表である日本と西洋の代表である米国との間で「世界最終戦争」が行われ、勝利した方が世界を統一し世界連邦政府を創設するというワンワールド思想である。つまり世界統一=ワンワールドに誘導する前提としての東西対抗史観であった。これは完全に両建の罠である。

〇「中」の考察でもう一つ重要な事がある。「中道=最適解の発見」と言っても何が「最適解」かは人によって判断が異なる場合がある。そこで、独善的にならない事(これは「執着しない事」に含まれるが)、寛容さ、対話する姿勢が大事になってくる。対話する事で誤りが修正されたり、発見があったりする。

〇「中道」に関して思想工作員がやりそうな事は「弁証法」との付会と予測されるので予め制しておく。AとBを「止揚」してCに至るというのが「弁証法」だが、「中道」は両極のAとBだけでなくCをも否定して、その状況に於ける最適解を端的に見抜く事である。「止揚」などという迂回はせず端的に急所を突く。

〇具体的には。例えば、右と左の両建抗争で日米FTAなどの売国政策を隠蔽する工作に対しては、両極である右と左を批判しつつ肝心の売国政策を徹底追及する、日韓グローバリストの両建抗争を煙幕に日中韓FTAやRCEPに誘導する策略に対してはグローバリストを批判しつつ両包括的奴隷条約を断固糾弾するなど。

〇スピンを見破り真に重要な「裏権力案件」を見抜く。その時々の情勢の全体状況を把握して、今何が一番重要かを見抜く。次いで重要度に応じた追及の優先順位を考える。最も重要な問題の追及を優先し優先度に応じて追及の度合いを調整する。「中」「中道」は思弁ではなく両建を破る実用的な思考法である。

〇陰謀追及者のメンタル維持についてご質問を受けた。確かに大事な事。陰謀追及では基本的に世の中の邪悪な事、悲惨な事を対象にする事が多いので情報に接する度に精神的疲労が蓄積していく危険もある。また耐性がないと情報の分析自体が出来ない。メンタル強化の方法を各自で工夫する事は大切であろう。

〇個人的には認識論的アプローチを重視している。まず人間の「心」「精神」を「何かを認識し、反応する一連の過程」と定義する。感情の生起も反応の一種。何かを認識すると感情が生じる。感情が過大である事が精神的疲労の主たる原因と分析。メンタル維持の為には感情の制御・調整が鍵と結論付けられる。

〇感情の制御・調整の仕方は個々人で千差万別であろう。個人的には「感情を観察する」という方法を主に用いる。謂わば「心の反応を見る」という事。人間の脳・意識は二つの事に同時に集中できないそうである。感情が生じた時に感情の観察を行うと感情自体に集中できなくなり結果として感情が調整される。

〇情報を認識すると只の客観的な認識という以上に様々な感情(喜怒哀楽、憂い、不安など)や欲、思考、妄想等も生じ得る。一端生じた感情や想念の影響が蓄積する事で精神的に疲弊していくのだと分析する。であれば精神の疲弊の防止の為には認識した時に生じるこれらの反応を制御する必要があると分かる。

〇整理する。①心とは対象を認識し反応する過程。②対象を認識すると感情や想念などの反応が生じる。③反応の蓄積が精神を疲弊させる。④精神の疲弊の防止の為には心の反応を制御する必要がある。⑤心の反応を制御するには心の反応を客観的に観察する事が有効。意識は二つの事に同時に集中出来ないから。

〇認識対象は①「快」②「不快」③「どちらでもない」という三種類の感情価を帯びる。特に①②が問題となる。①には欲が、②には怒りが生じる。②への反応の代表は「怒り」だが、不安や恐怖など総じて否定的反応である。これら感情は自然な反応だが、あまりに過剰だと精神が疲弊する。調整の工夫が必要。

〇対象を認識すると感情が生じる。感情の調整には二つの方法があると見る。①感情自体を制御する。②感情が生じる要因となる認識対象から遠ざかる。①が出来れば最高だが、①が難しい場合は②の方法で心を守る事も時には必要だろう。「逃げ」に非ず。無理は禁物である。強いると陰謀追及は長続きしない。

〇陰謀追及者のメンタル維持法の考察を「未発の中」の考察スレッドに書いたのは、「何かを認識して喜怒哀楽が生じる以前の心の状態」が「未発の中」であり、喜怒哀楽という感情が発して節度に適っている状態が「和」(已発の和)だからである。即ち「中和」。「中和」も感情の制御・調整がテーマである。

〇「未発の中」は儒学の考えだが、仏教の「六根」「六識」という認識論も参考になる。即ち「眼耳鼻舌身意」。五感と表象・思考を含む認識器官・認識作用の全てを指す。これら六つが対象(色声香味触法)に接する事で認識が生じ、欲や怒り、執着などの反応が生じる。つまりこの六つが煩悩の原因とされる。

〇眼耳鼻舌身意の六根は外界との六つの「門」に喩えられる事がある。江戸初期の思想家の鈴木正三は六根を煩悩という「賊」が生じる原因(六賊)とし、六つの「門」を守り抜くべしと説いた。メンタル維持だけでなく洗脳防止にも参考になる。洗脳の「入口」となるのもこれら認識作用の「門」だからである。

〇洗脳も結局認識の「門」が入口になる。文字、シンボル、映像、音楽など視覚や聴覚などの五感を通して刷り込む。イメージ(表象)を喚起したり、思考を誘導したりする。結局、五感・表象・思考でしかない。これを昔の人が「眼耳鼻舌身意」と表現したに過ぎない。これら全てに気を付けて洗脳を防止する。

〇国境に厳重な検疫体制を敷いてウイルスが国土に侵入しないようにするように、六つの認識の「門」で精神的ウイルスが侵入しないように見張る訳である。ウイルスが侵入してからでは遅い。ウイルスが国土に侵入する前に国境で食い止めるのが最善である如く、精神的悪影響を受ける前に「門」で防ぎ止める。

〇スッタニパータに「六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」とあり。六つとは記述の如く眼耳鼻舌身意で表す認識作用の全てを指す。メンタル維持や洗脳防止の問題もこれら認識世界に関わる事項である。

〇同じくスッタニパータに「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。」とあり。六つに対する貪欲を離れる事を説く。メンタル維持や洗脳防止にも通じる考え方である。「六つに注意せよ」である。

〇何事も要点を把握し本質を抽出していけばシンプルに問題を理解する事が出来る。そうすれば対処法も自ずから明らかになると思われる。メンタル維持の問題も洗脳防止の問題も結局は人間の認識作用に関わる問題である。人間の認識作用は五感・表象・思考である。要はこれらをどう扱うかにかかっている。

〇人間が何に注意を向け、認識し、反応するかである。本質を抽出すれば結局はこれである。情報操作とは結局はこの一連の過程に働きかける事だと分析する。意図通りに注意を向けさせ又は注意を逸らし、認識させたいものを認識させ、意図通りの反応を引き起こす。情報操作への対抗はその逆を行く事である。

〇「唯識」の学問で人間の心理を細かく分析・分類しているが、「遍行の心所」というのがある。これは人間の認識作用に必ず見られる心理作用を分析したもの。触・作意・受・想・思の五つ。触は感覚器官と対象の接触、作意は特定の対象に注意を向ける事、受は感受、想は表象、思は対象に働きかける意思。

〇「人間が何に注意を向け、認識し、反応するか」と書いたが、前述の「触・作意・受・想・思」は見事にこの認識論的過程を記述している。唯識の学問の言葉を借りれば「遍行の心所」に働きかける事が情報操作の本質と言えるのではなかろうか。先人の知恵は無駄がなく端的に事の本質を突いている事が多い。

〇「意図通りに注意を向けさせ又は注意を逸らし、認識させたいものを認識させ、意図通りの反応を引き起こす」「情報操作への対抗はその逆を行く事」と書いた。「その逆を行く事」とは、(裏権力が)注意を逸らしたいものに注意を向け、認識して欲しくないものを認識し、意図通りの反応をしない事である。

〇「遍行の心所=触・作意・受・想・思」は「触は感覚器官と対象の接触、作意は特定の対象に注意を向ける事、受は感受、想は表象、思は対象に働きかける意思」だが、何かに注意を向け、感受し、概念化し(「想」の作用の一つ)、その対象に反応し働きかける、というのは人間の「心」の一連の過程である。

〇初期仏典で「触」を苦悩の原因だとするものがある。仏教の認識論で言うと、「苦」の直接的原因は「執着」で、「執着」は認識した対象に対して生じるのだとすれば、対象認識(対象を認識する作用)自体の端緒である「触」(認識器官と認識対象の接触)を苦悩の根本的原因と捉える事も出来る訳である。

〇「アートマンの有無」など経験的に真偽を断定できない、如何なる形而上学的立場を取ろうとも「触」という心理作用を抜きにして苦悩の原因を説明する事は出来ないという。確かに、「苦悩」の原因を現実的に分析するとなると、認識作用の端緒となる「器官と対象の接触」を無視する事は出来ないと言える。

〇「苦悩」だけに限定されない。これは広く応用が効く認識論的洞察である。思考誘導や洗脳は視覚や聴覚など何らかの対象を認識させる事によって為される。防御の為にはこの認識作用に気をつける。特に認識作用の端緒である「触」に注意する。「触」という兆しの段階で気づけば悪影響の除去も容易である。

〇仏教の認識論の言葉を借りると「眼耳鼻舌身意」が「色声香味触法」に接する作用が「触」である。「眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処」で認識され得る経験世界の全てを指す。如何なる対象を認識してもその端緒=触に気づいて悪影響を除去出来れば、思考誘導を兆しの段階で防ぐ事が出来るはずである。

〇既述した唯識の学問で言う遍行の心所「触・作意・受・想・思」の内「作意(さい)」も重要である。「作意」は特定の対象に注意を向ける心理作用を指す。認識器官が認識対象に触れても対象に注意を向けねば「見れども見えず」という状態で認識が成立しない。対象を認識する為に不可欠の心理作用である。

〇「大学」に「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞えず、食えどもその味を知らず」とあり。対象に注意を向けないと例え感官が対象に触れても明瞭に認識する事は出来ない。「心ここに在り」とは対象に注意を向ける事。注意を向ける事で特定のの対象が「地」から「図」として浮かび上がる。

〇故に「認識しない」とは「注意を向けない」事でもある。対象に注意を向けないとその対象は認識されない。これで所謂「スピン」の目的が分かる。スピン・コントロールとは、優先度の低い事象に人々の注意を向けさせて、優先度の高い事象へ人々の注意を向けさせないようにさせる心理操作の手口である。

〇「触・作意・受・想・思」はどんな認識作用にも必ず伴う普遍的な心理作用とされるので「遍行」と総称される。「作意(さい)」は対象に注意を向ける事。対象に注意を向けねば対象を認識出来ないので、確かに「遍行」と呼ぶに値する。スピン・コントロールはここで言う「作意」を操作する手法と言える。

〇認識作用が生じた時は、特に「触・作意・受」(感官と対象の接触・対象に注意を向ける・感受)は必ず生起すると言える。「想」(表象や概念的思考)や「思」(意思)は場合による(イメージや概念を伴わない知覚や対象に対してどうこうしようという意思が生じない場合もあり得る)が、大抵は生起する。

〇「触」(認識器官と認識対象の接触)は五感とは異なり感覚を伴わない表象(イメージ)や概念的思考も認識する対象がある限りは例外ではないとされる。「眼耳鼻舌身意・色声香味触法」で言うと「眼耳鼻舌身」と「色声香味触」の間だけでなく「意」と「法」の間にも「触」が成立するという捉え方である。

〇「想」は表象作用(イメージを思い浮かべる事)と概念的思考を含む。人間の認識活動には大抵はこれが伴う。例えば、何かを認識した時に副表象としてイメージが浮かんだり(小説を読みながら情景を思い浮かべる等)、対象を概念的に認識する(大地からの隆起した物を「山」として認識する等)のは普通。

〇「菜根譚」という書物に「一たび起こらば便ち覚り、一たび覚らば便ち転ず。」とあり。「私欲の念が起こったらすぐさま気づき、気づいたらすぐさま正しき道理の方に修正せよ」という程の意味。悪は芽の段階で修正せよと。「悪影響を兆しの段階で気づき、断ち切る」という洗脳防御の方法はこれに通じる。

〇ボヤの段階なら鎮火も容易である。これは何事にも通じる。洗脳や思考誘導は悪影響を兆しの段階で気づき断ち切る事が肝要である。特定の世界観を刷り込まれるなどしてどっぷり浸ってしまうと洗脳を解くのは容易ではない。「心ここに在らず」は危ない。常に注意深くあるべき。注意し、気づき、断ち切る。

〇既述の「遍行の心所」の「心所」とは。倶舎論、唯識、上座部仏教などの心理学では「心」を「心(心王)」(心の本体。※「本体=実体」という意味ではない。普通は眼耳鼻舌身意の六識。唯識ではこれに末那識と阿頼耶識が加わり八識)と「心所」(心の作用)の組み合わせて説明するモデルを持っている。

〇心の本体(「本体=常住不変の実体」という意味ではない。「心の主体」という程の意味)である「心(心王)」とそれに伴う「心所」(心の作用)の組み合わせで複雑な心理現象を説明する心理モデル。南都北嶺で法相・三論・倶舎を学んだ天海(江戸初期の僧)は「心所心王 以識為主」を悟ったとされる。

〇心に生起する様々な作用を「心所」と呼ぶ。「心と心所」の組み合わせて心の構造をモデル化するのは倶舎論、唯識、上座部等で共通するが、「心所」の分類自体はそれぞれ異なっている。前述の「遍行の心所」(触・作意・受・想・思)は唯識の分類で、心(心王)が生じれば必ず相伴う心の作用を意味する。

〇西洋哲学だとエルンスト・マッハの認識論が倶舎論の心理モデルに多少類似する。マッハは感覚的要素の複合で心理現象・物理現象の全般を説明する無実体論的なモデルを作った。これは「自我」や「物質」などの「実体」を想定する実体論が当たり前だった西洋哲学史の中では画期的な発想だったと言える。

〇「遍行の心所」とは心(心王)が生ずれば必ず伴う心所(心の作用)を意味する。対象に接触し、注意を向け、感受し、イメージを浮かべたり概念化したりし、対象に向かって「ああしよう、こうしよう」と意思を発動させる、というのは確かに心に普遍的に見られる作用である。中々見事な心の分析だと思う。

〇心(心王)と心所の関係は水と水に溶けている成分の関係にも喩え得る。水に毒物を入れると水自体が毒性を帯びるように、心に「貪瞋痴」(三毒)という煩悩の心所が生じると心が悪となる、とされる。逆に、毒を抜くと水が浄化されるように、心の中から「貪瞋痴」が消えると心が清らかになる、とされる。

〇この心理の構造のモデルは参考になる。裏権力及びその走狗が流す情報は思考誘導を目的とした悪意ある情報である。悪意ある情報が心に刷り込まれた状態は毒が水に溶けた状態に喩えられる。裏権力が垂れ流す精神的「毒」である悪意ある誘導情報に気をつけて、精神を操られないようにしなければならない。

〇だが、「水と毒」と「心と情報」は違う面もある。毒が混ざった水は毒性を帯びるが、心が誘導情報を認識しても、単にそういう情報があるという客観的な認識にとどめ、鵜呑みにしたり盲信したり感情を煽られたり執着したりしなければ特に問題はない。むしろ、陰謀追及者にはこのような耐性が必要不可欠。

〇悪意ある誘導情報に対する耐性は先述の陰謀追及者のメンタル維持にも関連する。悪影響を受けずに分析だけきっちりやるには耐性が必要。誘導情報を分析する事で裏権力の意図を読む事も可能。誘導情報を認識しないようにすれば悪影響を受ける危険は避けられるが、情報を分析し陰謀追及する事も出来ない。

〇悪意ある情報に対する精神的耐性は陰謀追及者にとっては単に洗脳や思考誘導を防御するという消極的な意味だけでなく、情報を分析し陰謀を追及し裏権力の野望を打ち砕くという積極的な意味でも必要不可欠な資質と言える。耐性が無いと情報に飲み込まれてミイラ取りがミイラになる危険があるからである。

〇「ミイラ取りがミイラになる」とは、例えば陰謀情報に接している内に考えや思想が裏権力に同化したりする事である。人口削減計画を肯定するようになる、「ワンワールド化は不可避」と思い込むようになる、生存欲を巧みに刺激されて「生き残りたい、だからNWOに乗り遅れないようにしないと」と焦る等。

〇裏権力配下の思想工作員は巧みに人間の心理の弱点を突いてくる。「このままだと生き残れない」「抵抗すれば時代に乗り遅れる」といった風に人間の生存欲や自己愛に巧みに働きかけてNWO肯定に誘導しようとする。オカルトやスピ、都市伝説という体裁を取る事が多い。かかる趣味の愛好者は特に要注意。

〇NWO肯定に誘導する思想工作員は「時代」というものを実体論的に語るのが特徴である。具体的な個々人の考えや態度、行動とは無関係に超越的に「時代」なるものが決定されるという世界観である。ニューエイジのアクエリアン・コンスピラシーの考え方が思想工作で多用されるが、この世界観は典型である。

〇しかし、組織的な思想工作を行って個々人にNWO肯定の思想を刷り込もうとする事自体が「時代」なるものが超越的に決定されるような実体論的なものでない事を示している。裏権力が捏造を企む「時代」や「支配体制」というものが個々人の考えや言動に依存するが故に個々人の精神を操ろうとするのである。

〇「もうすぐ水瓶座の時代。時代に合わせていかないと乗り遅れる。抵抗しては駄目。」みたいなメッセージを発するスピ商売人達。判で押した如く似通った「メッセージ」を発するのは情報の出所が同じだからとしか思えない。ネタ元ははっきりしている。マリリン・ファーガソンの「水瓶座の陰謀」だろう。

〇「魚座」が基督教の時代で、「水瓶座」がニューエイジ(新時代)とする。西洋占星術の考えをベースにしているようだが、「基督教の時代」と括る事自体が非基督教圏を無視した西洋中心の驕った発想と言える。クロウリーの「ホルスの時代」も「NEXT基督教時代」である。どこまでも西洋中心の発想である。

〇ニューエイジ(新時代)は一見「個人」を重んじるように見せるが、実はそうではない。「時代(エイジ)」というものが超越的に決定され、具体的な個々人はそこに合わせるか従うしかないという発想が根底にある。ついていけない人間は「淘汰」されるという発想。人口削減計画に好都合な世界観と分かる。

〇ニューエイジは「時代」なるものが超越的に決定されると捉える点で、猶太・基督教、ひいては古代中東の宗教観(特にゾロアスター教)を引き継いでいると分析する。時代の推移が個々人の行動を超えて超越的・決定論的に定まるという歴史観は西アジア以西に根強い。ニューエイジもそこから出たと見る。

〇自称グノ一味みたいな者達はニューエイジで猶太教や基督教を「批判」するが、西アジア以西の世界観の伝統という根を同じくしている事に気付いていない。気付いた上でやっているなら上級の思想工作員と言えるが、彼らはそこまで工作員としてのレベルは高くない。内容が薄っぺらい事がその証左である。

〇コロナウイルス危機を「アクエリス時代」とやらに結び付ける言説も見られる。人口削減やNWO化を後押しする言説に要注意。個々人が趣味でスピやオカルトの類を楽しむ事は否定しないが、商売人や工作員が垂れ流す「毒」に気をつけるべきである。オカルトは耐性がないと趣味としても危険物なのである。

〇「「時代(エイジ)」というものが超越的に決定され、具体的な個々人はそこに合わせるか従うしかないという発想」「ついていけない人間は「淘汰」されるという発想」と書いたが、実に裏権力に好都合な発想である。裏権力が「時代」の内容を勝手に決めて、人々をそこに囲い込み、従わない人は排除する。

〇ここで言う「時代」とは主に「NWO」「ワンワールド」などと称される「世界統一独裁支配」を指す。個別的には、5G、キャッシュレス化、IoTなどの裏権力案件を「時代」の名で「不可避」と思考誘導する。総じて言えば、裏権力が「時代」の内容を勝手に決めて、人々をそこに囲い込む為の思想ツールである。




(了)



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抜粋おわり


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